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医療介護のリスク・マネジメント


 全12回に渡って、医療・介護の現場におけるリスクマネジメントについてお届けします。


<執筆>
弁護士・東京大学特任教授 児玉 安司


第7回:終末期医療と法的「リスク」


地域包括ケアの中で


 1958年に国民健康保険法が制定され、1961年には市町村で国民健康保険事業が開始され、すべての国民が社会保険で医療を受けることができる「国民皆保険」が実現された。健康保険は、日本人にとっては水や空気のように当たり前になってしまっているが、国際的にみれば決してそうではない。
 例えば、2010年以降のアメリカのオバマケア(PPACA:Patient Protection and Affordable Care Act)の成り行きをみると、国民の保険加入を義務づける条項が連邦政府の役割を逸脱した憲法違反であるとして多くの州政府が裁判所に提訴し、2012年6月28日に連邦最高裁が5対4の僅差で合憲であると判断したことは記憶に新しい。
 わが国では、国民皆保険から約40年を経て、2000年に介護保険法が施行され、来たるべき超高齢化社会に向けて「ゆりかごから墓場まで」の社会保障制度の再構築が始まっている。医療・介護と在宅ケアにおいて、公の役割による公助と、社会保険による共助、地域の人のネットワークによる互助、そして自らが老後に備える自助を、有機的に連携していく地域包括ケアの考え方が提唱されている。
 急性期医療は、「人の命を救う」という崇高な役割を可能な限り果たそうとしてきた。その一方で、超高齢化社会における地域包括ケアは、「人の死を看取る」という重要な役割を担っている。国民皆保険以降、日本人の死亡の9割が医療機関内での死亡となり、地域や家庭が看取りの経験を急速に失っていった。しかし、昨今では再び医療機関による救命と同じくらい医療機関における看取りが重要になり、看取りは医療から介護へ、介護から家庭へと次第にその場を移そうとしている。
 ところが、法制度の整備が立ち遅れている。刑法を初めとした多くの法制度は、生命の尊重と個人の自己決定を至上命題としている。生命の終焉をどう看取るかという課題については、法の定めがない。それでは、個人の自己決定に委ねるかというとそうでもない。本人の同意があっても殺人は殺人、ひとの自殺に関与することも犯罪、という刑法202条自殺関与罪・同意殺人罪は、人の終末期と看取りを視野に入れていない。
 明瞭な判断能力があるうちに、自分が判断能力を失った後の医療や看取りのあり方を自分の意思で決定するというのは、現場の実践に有力な選択肢を提供するはずだが、法制度の未整備が実現の阻害要因になっている。
 最大の問題は、解決のためにどのような手順を踏んで行ったらよいかがみえない、ということである。ルールと現実があわなくなったときに、どうやって新しいルールを作っていくか、この国でのルール形成のプロセスが問われているともいえる。

アメリカのルール形成 〜カレン・クィンラン事件など


 1975年、20歳の女性カレン・クィンランは遷延性植物状態(persistent vegetative state)と診断された。同年7月に両親は、主治医に対して人工呼吸器の使用を含む「特別(extraordinary)」な処置の打ち切りの指示を求め、医師や病院の一切の責任を免除する旨の文書にサインをして主治医に渡したが、主治医は治療中止を拒否した。
 そこで、両親は、自分たちをカレンの後見人に選任することと治療中止が違法でないことの確認をニュージャージー州の裁判所に求めて提訴した。同年11月の一審判決では両親の訴えは認められなかったが、州最高裁は、翌1976年3月に一審の判決を覆し、両親をカレンの後見人に任命するとともに、治療中止が違法でないことを宣言した。カレンの人工呼吸器ははずされたが、10年近くにわたってカレンは生き続け、その後、死亡した。
 このカレン・クィンラン事件は、生命維持治療の中止について議論されるときには、しばしば話題にのぼる著名事件である。この事件では、水や栄養を補給するチューブの抜去は行われなかったが、1983年にミズーリ州で発生したナンシー・クルーザン事件で裁判所の判断が示され、水や栄養を補給するチューブの抜去も適法とされるリーディングケースとなった。
 生命維持治療の中止を認めるか、認めないか、という結論が重要なのではない。結論にいたるプロセスにアメリカという国の特徴が表れているのである。
 第一に、生命維持治療が中止される前に裁判所の判断が示されている点が注目に値する。日本では、生命維持治療の中止が行われた後で、何年もたってからメディアを通じて表沙汰になり、警察の捜査が行われて、あるときは起訴されずにそのままになったり、あるときは刑事裁判となって有罪判決が出されたりする。警察・検察・裁判所が事後的な評価を行うが、事前にルールが示されていない。医療者は、治療を中止すれば刑事処罰されるおそれがあるが、治療を継続すると家族の同意のない治療ということになって法的紛争となる可能性があり、治療を中止しても継続しても「法的リスク」に直面せざるを得ないという進退両難に追い込まれている。アメリカの制度は、事前に裁判官の判断が示されるので、日本のような不条理な状況に医療者が追い込まれることはない。
 第二に、州の裁判所であることも重要である。国内のすべてに統一的な法を作るのではなく、各州の多様性と自治・自律を認めるのがアメリカの制度である。
 第三に、現場の最前線にかけつけた裁判官の判断の集積が「法」を作るということである。役所の審議会や検討会での討論を経て、行政がガイドラインを作ったり、国会が法律を制定したりするという手順そのものは、日米で大きな隔たりがあるものではない。ただ、最前線のニーズに応えて「法」を形成していく手順と裁判所の機能には大きな差がある。
 これらの点について、生命維持治療の中止に関する川崎協同病院事件について、東京高等裁判所平成19年2月28日判決は、異例といってよいほど踏み込んだ表現で、ルール形成の現状について言及した。
 「尊厳死の問題を抜本的に解決するには、尊厳死法の制定ないしこれに代わり得るガイドラインの策定が必要であろう。すなわち、尊厳死の問題は、より広い視野の下で、国民的な合意の形成を図るべき事柄であり、その成果を法律ないしこれに代わり得るガイドラインに結実させるべきなのである。そのためには、幅広い国民の意識や意見の聴取はもとより、終末期医療に関わる医師、看護師等の医療関係者の意見等の聴取もすこぶる重要である。世論形成に責任のあるマスコミの役割も大きい。これに対して、裁判所は、当該刑事事件の限られた記録の中でのみ検討を行わざるを得ない。むろん、尊厳死に関する一般的な文献や鑑定的な学術意見等を参照することはできるが、いくら頑張ってみてもそれ以上のことはできないのである。」

ルール作りをどうするか


 前回述べたとおり、リスクとは不確実性である。事後にどのような法的判断が下されるのかが不確実な状態が、「法的リスク」というべきである。法的リスクは、不道徳な人がいるから生じるのではない。ルールが不明確で法的判断が不確実だから生じるのである。
 人の生死にかかわる問題は、さまざまな感情的な揺らぎを惹き起こし、社会全体が全員一致で合意することはとても難しい。そのような場合に、とりわけ日本的な立法・行政の仕組みの下では、ルールを事前に整備することの困難が大きくなる。「いくら頑張ってみても」という嘆きは、裁判所だけではない。
 良い悪いの判断そのものは、倫理の問題だから多様でよい。しかし、少なくとも刑事処罰をするかしないかについて判断基準が事前に明確にされている必要がある。高齢化社会の最前線を突き進んでいる医療・介護の関係者にとって、適切なルール整備によって刑事処罰の不確実性や「法的リスク」が低減されることは焦眉の課題である。

※ この記事は月刊誌「WAM」平成26年10月号に掲載された記事を一部編集したものです。
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