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医療介護のリスク・マネジメント


 全12回に渡って、医療・介護の現場におけるリスクマネジメントについてお届けします。


<執筆>
弁護士・東京大学特任教授 児玉 安司


第10回:何が証拠になるか


調査報告書は証拠になるか


 「院内調査委員会の報告書は証拠になるのか」と質問されることが多くなった。20年ほど前に、「カルテは証拠になるのか」という質問をされて、どう答えようか迷ったことがあったことを思い出す。
 民事手続で裁判所が報告書全部の提出を強制することはない。また、被告人が刑事事件で無罪を主張していて、院内調査委員会報告書の内容を否定しているとき、報告書は刑事事件の有罪の証拠として使えない。誤解を恐れず割り切っていってしまえば、そういうことになる。ただ、何を証拠とするかという議論は、原則と例外が幾重にも折り重なっており、単純な結論になじまないところが多々ある。
 医療機関側に有利な証拠であれば証拠にしたいとか、不利な証拠であったら証拠にしたくないとか、そういう次元の話であれば取り上げるに値しない。制度を考えるときには、有利であれ不利であれ、真実を明らかにするよい証拠が法廷に現れることが望ましい。
 ただ、諸外国でも果たして証拠にしてよいかどうかについて議論のあるものがある。例えば、患者が死亡して解剖した後のカンファレンスや、広く医療者同士が同僚として検証を行う「ピア・レビュー」は、歯に衣着せぬ厳しい批判によって真実が明らかになっていくものであり、後で証拠になることを気にしながらでは、組織内部の自由な討論がやりにくくなるという懸念がある。日本では、まだあまりそのような議論がされていないが、例えばアメリカのマサチューセッツ州法は、ピア・レビューについて慎重な取り扱いをしている。「慎重な取り扱い」というような微妙な言い方をするのは、法的な証拠として使えなくなっているというような雑な話ではなく、例えば医師の資格審査の際にはピア・レビューも証拠となるし、インシデント・レポートなどは、もともと診療録の一部として証拠になることが前提となっている。※1
 何を証拠にするか、何を証拠にしないか、という議論は、時代により国により大きく異なってくる。
 とくに、日本の裁判所の民事手続と刑事手続は異なる点が多く、とりわけ証拠についての考え方は大きく違う。日本の民事手続は、明治時代にドイツ法を輸入して作られている一方で、日本の刑事手続は、第二次世界大戦後にアメリカ法を広範囲に導入して作られた。いずれも時を経て「和風」になってきているが、やはり元々のドイツ風、アメリカ風の違いがあちこちに目立つ。

※1… Massachusetts General Laws PART I ADMINISTRATION OF THE GOVERNMENT TITLE XVI PUBLIC HEALTH CHAPTER 111PUBLIC HEALTH Section 204

法制度の違い 〜アメリカ風とドイツ風


 世界の法制度は、アメリカ・イギリスなどで発展した英米法とフランス・ドイツなどで発展した大陸法の二系統に大別される。法廷の風景も、何を証拠として誰が事実認定をするか、という裁判制度の核心部分にかなりの違いがある。


【アメリカ風】

 アメリカ風の法廷のシンボルは、何といっても陪審員だろう。選挙が近づいてくると皆に投票用紙が送られてくるように、陪審員候補に選ばれましたという裁判所からの連絡は誰のところにでもやってくる。何らかの利害関係があって公平な判断ができない事情があるような場合を除けば、普通の市民が陪審員となって、重大事件の事実認定を行っている。
 『十二人の怒れる男』(Twelve Angry Men)という映画は、きっとどこのレンタルショップでも借りられる名画だが、陪審の評議の様子を描いている。中学校の体育教師、銀行員、会社経営者、スラム育ちの工員、引退した老人、建築士、移民の時計職人など、文字どおりありとあらゆる階層の普通の市民が集まって、陪審員として殺人事件の被告が有罪か無罪かを判断している。※2
 「普通の市民にそんなことが判断できるのか」というのが、和風の感覚だろうと思う。一方、「普通の市民が判断できるようにするのが法律家の仕事」というのがアメリカ風だろう。裁判官は、問題点を整理するとともに、原告被告から提出される証拠を取捨選択して、「何を陪審員に見せるか」という判断を行う。とくに細かく議論がわかれるのは、書類に書かれた言葉をどこまで陪審員に見せるべきか、ということである。報告書などは、誰が何の目的でどんな資料を見てどういう判断をしたか、報告書ができるまでのプロセスが違えば、表現はどんな風にでも変化する。そして、いったん書かれてしまった言葉は一人歩きしかねない。
 アメリカ風の核心部分は「証人が法廷に出てきて、反対尋問に耐えられた証言こそが一番信用できる証拠だ」という考え方ではないかと思われる。専門家がお互いの意見を擦りあわせて作っていった書類については、かえって陪審員に先入観を持たせてしまうのではないかという懸念から、捜査機関や裁判所は証拠として見ていても、最後の最後、陪審員には見せないことがしばしばある。普通の市民が証人尋問を見る、というのが法廷のメイン・イベントである。

※2… 2009年から導入された日本の裁判員制度は、刑事手続に限定されている。「裁判員制度とは、国民の皆さんに裁判員として刑事裁判に参加してもらい、被告人が有罪かどうか、有罪の場合どのような刑にするかを裁判官と一緒に決めてもらう制度です。」(法務省)
http://www.moj.go.jp/keiji1/saibanin_seido_index.html


【ドイツ風】

 ドイツ風の裁判は、和風の感覚により近いように思われる。ドイツでも、フランス革命の影響を受けて、陪審制が導入された時代もあるのだが、現在は、刑事手続について裁判官3人に市民から選ばれた参審員2人が参加するという仕組みになっている。※3
 プロフェッショナルの裁判官が膨大な証拠書類や調書を検討して事実認定を行い、緻密な理由づけを書いていく、というのがドイツ風の法廷のメイン・イベントである。アメリカ風の「普通の市民」と証人尋問重視よりは、かなり「専門家」と書類に重点が置かれているといってもよい。「普通の市民」に先入観を持たせることがないように権威ある書類を証拠から排除するというアメリカ風の発想からはほど遠い。
 また、医療訴訟において、鑑定人として意見を述べることが「専門家」の誇りある責務とされているのも、ドイツ風の特徴と言えるかもしれない。

※3… 日本弁護士連合会 各国の市民参加制度
http://www.nichibenren.or.jp/ja/citizen_judge/about/column1.html

和風の裁判の悩み


 アメリカ風とドイツ風の違いがあっても、共通していることはたくさんある。出発点は、ことばへの信頼である。意見の違いを力によって解決するのではなく、ことばによって解決していこうとする文化が裁判制度の基盤である。
 裁判には、「普通の市民」の力と「専門家」の力の両方が必要である。「常識」と「専門知識」の間に橋をかけていくのが裁判という仕事の本質的な部分であり、普通の市民と専門家の共同作業により、法廷というからっぽの箱に中身が入っていく。
 前述のように、日本の法制度は、主に欧米の制度を輸入して作られたものが多く、歴史的な経緯によって、民事裁判はドイツ風の制度が長く生き残り、刑事裁判は、アメリカ風の制度が第二次世界大戦後に導入されるなど、欧米のどこかに由来する制度のパッチワークになっていることがよくある。
 パッチワークを乗り越えていくのは、「和を以て貴しとする」の和風の考え方、歩み寄り、すり合わせ、落としどころ、などなどである。とくに民事裁判では、和解による解決が重視されている。
 ただ、和解をするにしても、話し合いの足場は証拠である。とりわけ医療訴訟のように専門知識を要する訴訟においては、専門家の関与が不可欠である。日本では、アメリカ風に法廷でのディベートに専門家が参加することについてもためらいがあり、ドイツ風に医師会等の専門職能団体が法廷と連携するシステムもまだまだ未成熟である。
 平成13年7月、最高裁判所の中に、鑑定人候補者を早期に選定したり、各界の有識者に医事紛争事件についてさまざまな意見を述べてもらうことなどを目的として、医学界および法曹界の有識者と、一般の有識者からなる医事関係訴訟委員会が設置された。また、東京地裁でのカンファレンス方式での鑑定については、東京都内の13の医学部によって協議会が作られ、順次鑑定人が選任されるようになっている。
 誠実な協議を尽くした院内調査委員会報告書について、司法機関から隔離する方針をとるのか、むしろ司法機関の誤った判断を防ぐために証拠として使用していくのか、和風の法制度をどのように形成していくか、医療界の良識が問われている。

※ この記事は月刊誌「WAM」平成27年1月号に掲載された記事を一部編集したものです。
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