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医療介護のリスク・マネジメント


 全12回に渡って、医療・介護の現場におけるリスクマネジメントについてお届けします。


<執筆>
弁護士・東京大学特任教授 児玉 安司


第11回:医師は裁判所で何を語るべきか@〜近代裁判と当事者主義〜


裁かれる医師たち


 医療界では、「そんなことをすると訴えられる」という言い方をよく聞く。民事であれ、刑事であれ、裁判で「訴えられる」こと自体が不名誉なこととされているように思われる。民事と刑事の混同については、稿を改めるが、根本的な問題は、多くの医師や医療従事者にとって、裁判とは、自ら主体的に医療のあり方を語り事実を主張する場ではなく、患者に訴えられ、警察官や検察官・裁判官に取り調べられ、裁判官に裁かれる場、どこまでも「受け身」の姿勢で受動的に苦痛に耐える場のように受け止められているのではないかと懸念されることである。
 ある診療ガイドラインの作成にあたって、「15分に1回の医師・看護師の観察を義務づける」という記載があり、どうしてそのようなことを記載するのか根拠を関係者にお尋ねしたところ、「裁判所でそういう判決が出ているから」という、驚愕すべきお答えをいただいたことがある。そんなガイドラインの作り方は間違いである。
 例えば、民事裁判ではその事案における当事者の主張立証を前提として、裁判所はその事案を解決するのに必要な限りで判断をしている。その時点での普遍的な科学的審理を認定するのが裁判所の仕事であるはずがない。また、どんな証拠が裁判所に提出され、どんな証言が行われ、当事者がどんな主張をしたかによって、裁判所の判決は大きく左右される。
 さらに、証拠のなかでも、医療界の作成するさまざまなガイドラインが重要な証拠として扱われている。ガイドラインを裁判所がどのような根拠でどこまで重視しているかについては、改ためて考察をするが、少なくとも、裁判がサイエンスに基づいて行われるべきなのであって、サイエンスが裁判にあわせて書き換えられることはあってはならないことである。判決文をサイエンスの根拠として「権威ある者の意見(authority's opinion)」のように扱うことも、裁判所の判決文自体を科学のエビデンスとして用いるのも明瞭な誤りで、考えられない倒錯である。
 それは、自分の影を見ながら、自分の影にあわせてダンスをしようとするようなものである。子猫に鏡を見せると、不思議そうに近寄ったり、怖がって鏡を引っ掻いたりするが、自分の姿が映っているという認識が持てないからである。裁判所の判決は、当事者の主張立証を映す鏡であり、それ以上でもそれ以下でもない。

お奉行様から裁判官へ


 裁判所の判決文をサイエンスの根拠としかねないような誤解の後ろには、近代になってから大きく変貌してきた裁判という仕組み自体への根本的な誤解があるように思われる。裁判所は人を裁くのではなく、当事者の主張の適否について判断するものである。主張立証はまず第一に当事者の仕事である。このような考え方を「当事者主義」と言い、近代の裁判の根幹をなしているが、「和風」の感性には必ずしもなじまないところの残る、輸入物の考え方なのかもしれない。
 理想の裁判官とはどういうものかというと、やはり、日本では大岡越前と遠山の金さんが双璧だろう。世情に通じ、自ら事実を探求し、善い者・悪い者の行状を知りつくし、人情と理屈をともに備えて、本当に悪い者は果断に成敗し、たまたま悪行に手を染めたに過ぎない者には情状を酌んで罪一等を減じ、無味乾燥な法に命を吹き込み、ときに機知に富んだやり方で争いを解決する…。
 法学部の教養課程の学生に「遠山の金さんの裁判について、現行の刑事訴訟法からみて違法な点を指摘せよ」という問題を出したことがある。まず、裁判官が捜査に関与していて事前に捜査情報を自ら取得しているのは、決定的な違法であり、裁判官として職務をおこなうことが許されない除斥事由にあたる。裁判官が「金さんという遊び人」などといって身分を隠して油断させ、どんどん捜査を進めて証拠を集めても、明らかな「違法収集証拠」(違法な手続によって集めた証拠)なので、裁判では使えない。最後に「桜吹雪に見覚えがないか」と啖呵を切るのは、裁判長が自ら目撃証人になっているうえ、何を目撃したかの具体的な証言もないから「証拠裁判主義」(裁判の事実認定には証拠が必要であるという適正手続の根本)にも違反している。およそ、証人と警察官と検察官と裁判官を兼ねているようなもので、情状酌量するときには弁護人も兼ねているのだから、刑事訴訟法の条文に違反しているところは数知れない。
 刑事では検察と被告人、民事では原告と被告を「当事者」というが、対質※する当事者の主張と立証を聞いて裁判官が「第三者」として判断するというのが「当事者主義」であり、刑事訴訟法や民事訴訟法の根幹をなしているのに、当事者も第三者もおらず、権力者と悪人だけがいるような裁判の姿は、近代的な裁判としては論外の姿である。法律学の入門者である教養課程の学生でも、この程度のことはわかってもらわないと単位はあげられないだろう。
 ただ、遠山の金さんや大岡越前について、もう一歩踏み込んで法と社会のあり方を探求する法社会学的観点からみても、興味深い論点がたくさんある。西欧近代の視点からみれば違法の極みの暗黒裁判をみて、人情溢れる素晴らしい裁判だと感動する日本人と日本社会は、西欧近代の考える法の適正手続(due process of law)を、なお十分には受容・継受していないのではないか、due processはなお異文化なのではないかとさえ思われる。また、裁判官は個人的知識で裁判をしてはならないが、他方、専門家に判断を委ねるわけではない。裁判官の私知(個人的知識)と第三者性という、各国の法制度の悩みの種になっている興味深い論点も指摘しておきたい。

※対質… 訴訟で、被告人・証人などの供述にくいちがいがあるとき、両者を相対させて互いに言い分を述べさせる形で尋問すること。

医師は裁判所で何を語るべきか


 とても偉いドクターに、「医師資格も持たない裁判官が、医療行為の適否を判断するのは医師法違反ではないか」と尋ねられて、本当に当惑したことがある。これに対して、「医療行為を行っているわけではありませんから」と形式論理でお答えするのも申し訳ないような気さえしたものである。「裁判官は、手術をしたこともないのになぜ手術の評価をするのか」、「患者をみたこともなく医療現場の実情も知らないのになぜ判決が書けるのか」などなど、似たような憤まんをもつ医療者は後を絶たないように思う。
 むしろ、裁判官がいかに白紙の状態で偏見なく当事者の話を聞いてくれるか、「第三者」であることの重要性が理解される必要があるだろう。そして、医療の専門家の意見が、当事者としても鑑定人や証人としても、裁判官の判断を左右していることを医療界はもっと知らなければならない。
 裁判所をはじめとした法執行機関において、医師が医学と医療について語る機会がますます増えている。裁判所の選任する鑑定人や専門委員などの中立的第三者として、原告側や被告側の証人として、警察・検察などの鑑定受託者や参考人としてなど、医師は多様な立場でこれまでも法執行を左右してきた。また、医療に関する法制定過程においても、医師は医療の専門家として法のあり方そのものを動かしている。法執行と法制定の両面にわたる見識をもつことが、医師に一層求められるようになっている。
 近代裁判は、裁判官の人格と権力によって支えられるものではなく、当事者の主張立証によって支えられているからこそ、医師が法廷で何を語るかが本当に重要なのである。法廷は医療界を写す鏡であり、判決文は医学的な知見の影に過ぎない。専門家としての医療者が、裁判手続にいかに主体的に関与していくかが問われている。

※ この記事は月刊誌「WAM」平成27年2月号に掲載された記事を一部編集したものです。
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